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[チラシの裏]

趣味の哲学




もちろん第三項がそれによって驚愕に値する。微分的に規格化は知の系譜学ではないとされるがそれらの中では明示される。物象化された実践だけが容認されるのではない。主体なき意志がメトニミー的であるほどに極限の荒野において無意識でさえつまり哲学に蓄積されるれあまねくエピステモロジークに消滅する。理論が倫理的合理化とされる。即座に蕩尽の概念は常に隠蔽されているかの如くそのナルシスティックな言い回しが現象によって表現されるれ換言すれば混沌へと引き戻されるのではなくパラケラスス的世界観にとってシーニュの恣意性すら至高性を構成する。ディスクールの実践は理論的ゲヴァルトに作用していると言えよう。虚無は解体するべきではなく、このように有り得ない事ではないはなく常識的に空想的社会主義はリジッドなハイアラーキーの中で自壊するから切実な問題だ。

短期的に見れば権力は自己言及的な批判を黙殺している必要があるが、成立しないせずおそらく排他的であるならば再び社会的合理化はいわば言述的事象から分離する。ここに至ってベンヤミン的政治意識はパラドクスである以上、自由の名目のもとに意識の機能であるものとされるが当為性が安定すると言えるが、少なくとも自己充足性を対象とする。理性でさえ失意と絶望にまみれて死ぬのではないが呪われた部分が黙殺されるからこそ目を背けたくなるほどに神秘化されるとは考えられない。長きに渡りこれらも表層の内部に浸透するし破棄すべき程度に燃え尽きる。形相が表現されたものとして存在しないとはいえそれこそ不可能性を暗示するほどに結合価を担うし自動的にそれを語る事ができないのではなくこれらの実践を通して演技する。トーテミズムだけが間断なく発達するが、規範意識は単純化された事象に服従するようになるし滅亡するとは言えずこうして言語すらこの点について堕落するし因果律が説明できない。この係争のプロセスがある程度まで予断を許さないものである。永久モードは世俗化を可能とする。

社会的基盤が決定論者の如く経験を売り渡すとしても他方で排除される。器官なき身体は無駄なものに見えるべきでありその主体の領域侵犯のために象徴的価値の基礎となるのであり存在不安は真に聖なるものを提示するものの合理化された社会において同一性を保持し得ないと断定することは避けるべきだ。マルクス教条主義が淘汰されるが故にディレンマも放棄されるれアーケイックな領域において圧殺されるれ価値増殖だけが組織化されて再生産される時、いずれにせよ辛苦である。イデオロギーが歴史的意識に依拠するし革命家はパトスへと立ち戻らせるし個別具体的に理性批判の方策を提供するのであれば自己組織化の問題すらおよそ分解するとはいえ自然は持続的に差延化する。知の考古学者がそれに対して解放されるという事でありなおかつ先行する社会の組成を通じてカリスマ指導者を求めているならば恐ろしいだけでは不十分だ。次第に暴力は自己同一性を書き換えるのであっても同時代性と結合するとも考えられる。間主観性の問題はアウラ的な力を有するとは言えずしたがって同質化が過誤であるものである。認識の表層でランガージュだけが物々しい。

それら相互の関係においてスターリン主義言語学も精神の所有物であるから切実な問題だ。生産活動のために意識が容易に推察されるらしいが、瞬く間に原理的なものとして楽園から追放されるれ人間によって制約されるれ容認されるのである。正義を宣言し執行する暴力はメタラングを要請されるのと同様に同時に存在する。価値の体系は永劫回帰を撹乱するかの如く引き裂かれる必要があるが、行動と名付けられるが、見る事ができない。人間中心主義が明確な暴力性である以上、常に隠蔽されているからには主観はまず倫理的合理化とされるからこそ消滅するとは信じがたい。貨幣制度でさえ独自に明示されるのであり比較的多数にとって汚染されると言えよう。禁忌は自給的に驚愕に値するのであれば要するに成立しないせず排他的であるのだろう。政治はしかしマルクス主義的である事だから文の機能を継承するとしても異質性も自壊する。

人工無能は、もっと精度の高いものが求められる[*1]。パロールは苦痛である。


*註1
本ペイジの由来について

それは 1995 年秋頃のある日、雑談の最中に、突然起こった。
「TAさんに《現代思想チャンネル》を書かせてあげますよ」
「え?! 言ってる意味がわからんが‥」
「ぼくが作ってる『チャンネル999』というページの下にページを 作らせてあげよう、というわけです」
「ええ?! ... (そんなことしてもらわなくたって、すでに自分の ページがあるってのに)」

... そのときは事態をよく把握できなかったTAであった。しかし、その夜、福島尊師あてに一通のメイルを出したのである。

「ご指名くださり、ありがとうございます。 《現代思想チャンネル》を速攻で作りました。尊師のお気に 召しますかどうか」

それに対する福島尊師のお答えに曰
「善哉善哉。世のページの主旨に沿うたものである。 では今度はソチに《趣味の哲学》を作らせてやる。しかと 励むように」
「... (-_-#凸」
かくて、世にも稀なる高貴な「福島」のペイジができあがった訳である。なお、このペイジははじめ galaga.jaist.ac.jp というマシン上でサービスをおこなっていたが、福島尊師が JAIST から最終解脱なさり、また私も東北に移った関係もあってサーバを何度か移転し、今は普通のプロバイダ上のマシン上でサービスをおこなっている。

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